御柱祭2016/3 古文書に見る御柱祭 戦放棄し造営取り組む /長野
諏訪大社の特徴は、本殿と呼ばれる建物がないことだ。上社は神体山を、下社はご神木をご神体とする。古代の神社には社殿がなかったともいわれ、大社は古い形を残しているといえる。その大社で、「造営」を称する御柱祭がなぜ行われ、柱建てされるようになったのか。
「長野県史」発行に携わった武田安弘・前信濃史学会委員長(85)=岡谷市=は、御柱祭を「人間の精神の安定を求める具体的な行動」とみる。神をあがめ、祭礼を通じて人の心をひとつにしようとする最大の行事というわけだ。四隅を御柱で囲むのも、精神の安定を求めるからで、三角でも丸でもない。
武田さんによると、「4本」は、四菩薩(ぼさつ)(普賢(ふげん)、文殊、観音、弥勒)や、四神(東南西北を示す青竜、朱雀、白虎、玄武)を表しているなど、20以上の説があるという。柱を建てて四角く囲うことに、悪霊を防いだり、風雨を鎮めたりするという意味が込められているとみられる。
社殿をはじめとする神社全体の建て替えには、多くの材木が必要となる。かつては、御柱だけを曳(ひ)き出すのではなく、建て替えのための材木を搬出したその中に、「御柱」もあったのではないか、とする説も有力だ。
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「御柱」という言葉が文献で確認できるのは鎌倉時代の1329年に記された「大宮御造営之目録」(諏訪大社蔵)がある。社殿や鳥居、玉垣などの建て替えは、信濃国全域に課役が割り振られたことが分かる。例えば「一之御柱 大井庄75石」「二之御柱 小県小泉庄65石」などだ。
諏訪市博物館の三嶋祥子学芸員(27)は「数えで7年ごとに建物を建て替えていたとすると、信濃国の民にとって経済的、労力的にとても重い負担だった」とみている。諏訪大明神を軍神として祭った武田信玄の時代も、御柱用の資金集めに苦労しており、催促状を出したという文書も残されている。
室町時代の1464年に書かれた筆録「神長官(じんちょうかん)守矢満実書留」は、日常のあれこれを記録している。筆録によると、御柱の年に諏訪の武士団が甲州(山梨県)に出陣していた。地元では、男手が不足。残った人々は、造営の「延期願」を諏訪神社(大社の古称)に願い出たところ却下された。過去に、延期したことで大祝(おおほうり)(神職の長)の死亡、倒木など「天罰」が相次いだからだ。諏訪勢は、戦いどころでなくなり急いで引き返し、一丸となって御柱に取り組んだという。
三嶋さんは「意地でも御柱の年に造営をやり遂げる諏訪人の心意気が古文書からも読み取れる」と説明する。【宮坂一則】=次回は22日
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